山には置いてきてはいけないものが2つある。それは「命」と「ゴミ」。登山マンガ「岳」の島崎三歩の心に響くセリフであり、登山をする者にとって大事な言葉。だけれど、僕は涸沢カールしかり、たびたび山に置いてきてしまうことがある。果たしてそれは一体…。
涸沢カールへの想いと登山者の聖地
山登りの最初の目標
「歩く距離は長いけど、登山を始めて最初の目標を涸沢カールにする人は多いよ。」
まだ、登山に魅了されたばかりのころ「どこの山がいい?」と誰かれ構わずに無邪気に聞き、登山経験豊富な人から言われた言葉だった。
涸沢カールの「カール」って何?という状態からネットや本を頼りに調べてみると、上高地、北アルプスと登山してなくても聞き覚えのある名だたるキーワードを目にして「行ってみたい」と胸を高鳴らした。
せっかく行くならベストシーズンと言われる紅葉の秋に行くことを決心する。
そこから体力をつけるため関東周辺の低山を歩きまくる日々を続けた。「大菩薩嶺」「御岳山」「武甲山」など、あの頃は本当に狂ったように毎週山に行っていた。思えば僕の低山好きはこのときから始まっていたのだろう。
そして、その年の秋、涸沢カールに行くことが決まる。
最初は当時運営していたコミュニティのメンバー6名と一緒に涸沢ヒュッテで山小屋泊をする1泊2日の登山、次の年は同じくコミュニティのメンバー4人でテント泊をした。どちらも真っ赤に燃える紅葉に合わせた秋だった。
2年連続で行くと毎年の行事になり、秋が近づくにつれ赤と黄色に染まった涸沢カールを思い出す。涸沢カールは僕にとって何か特別な場所かもしれない。
今回は3年連続になる涸沢カールで妻とテント泊をしたお話。
自分好みのギアや道具を選ぶ
「ねぇ、これは必要かな?」
秋の山は標高が高ければ高いほど冬のように冷えるので、持ち物に防寒着が必須だ。涸沢カールは標高2,300mの位置にあるため紅葉の時期はかなり寒い。特に夜や朝は気温も下がるため、防寒着に何を持っていくのか厳選する必要がある。
正直、僕はギアや道具にこだわりがない。逆に妻は一つ一つにこだわりを持っていて、毎回何かしらの新作ギアをお披露目するのが定番になりつつある。
今回も新作が仕込んであり、使うのが楽しみのようだった。それが僕にとってはリアルな情報収集にもなるのである意味助かっている。
妻のアドバイスで「メリノウールが温かいし、汗臭くならないよ」と聞いていたので、僕の今回の新作はモンベルで購入したメリノウールの肌着。早速、初日に着ることにした。登山歴3年目にして初めて着たメリノウールは化繊より抜群に着心地がよく、温かみを感じた。
新しいギアや道具があると気持ちもワクワクするもので、登山経験豊富な方から怒られるかもしれないけど、ファッションみたいにコーデを楽しむ登山もあながち間違ってはないと思う。
どこに心が踊るのかは人それぞれで、ギアや道具にこだわり、好きなデザインのものを持ち歩くことは、山歩きを楽しくする必要なスイッチかもしれない。
テント、シュラフ、防寒着、必要な食料、水、その他もろもろの衣食住を一つのザックにパッキングして、夜の東京を出発する。
登山者の聖地
上高地に行くには一般車の交通規制がかかっているためさわんど駐車場からバスやタクシーで行くことになる。さすが紅葉シーズンということもあり、朝3時ごろですでに駐車場がいっぱいだった。
バスの時刻まで少し時間があったため、車の中で仮眠した後、トイレを済ませ登山の準備をしてから片道1,100円の切符を購入し、始発のバスに乗り込む。
約30分ぐらいで上高地のバスターミナルに到着。ここに降りるのは3回目になるのだけど、何度来ても「山の聖地に来たんだ」と新鮮な気持ちになる。
上高地の名前の由来は、神が降りる地からきており「神降地」と書くこともある。聖地の名に相応しい由来が、これまで何人の登山者の気持ちを高ぶらせてきたのだろうか。
上高地から涸沢カールまでの道
まずは上高地バスターミナルから横尾までの道を歩く。ここを歩いたことがある人なら一度は思ったことがあると勝手に思っているのだけど、バスターミナルから河童橋→明神→徳沢→横尾と続く道は、綺麗に整備され平坦で歩きやすい…しかし、普通に歩いても約3〜4時間はかかるぐらい距離が長く地味につらい。
テントを担いでいるなら尚更、しんどく感じてしまう。横尾から涸沢カールまでが山登りの始まりだけど、その前に体力を消耗してしまうのは僕だけだろうか。
このときは久しぶりのテント泊ということもあり、横尾に着いたころには肩も痛いし、足も疲れていた。年々体重は増えるが体力は落ちてる気がする。
怠慢だ…身体を鍛えることを怠っているからこうなってしまうので、毎日のように走り込み、筋トレをしている人は本当に尊敬する。
横尾から約1時間ぐらい歩いていると、空から雨がポツポツと落ちてきた。横尾までは快晴だったのだけど、いつの間にか雨雲になっていた。天気予報は曇りのち雨で、ついに「のち雨」が来たのかとこれから濡れる覚悟を決める。
ここで少し余談。
横尾から歩き始めて屏風岩が見えてきたころには、体調が悪くなってきて歩く速度も落ちていた。前半の歩きですでに疲れがたまっていたのと、さわんど駐車場で仮眠をとったぐらいでほぼ寝ていなかったのが原因だろう。出発した金曜日は仕事だったのが今になって効いてくる。
「大丈夫?引き返して横尾のキャンプ場で1泊する?」
妻が心配して無理しなくてもいいと言ってくれた。
心の中では行けると思っていたけど、外から見れば明らかに歩くのが遅く、疲れているように見えるのも致し方ない。
「メリノウールがベタベタして気持ち悪い」
なんでこんなこと言ったのかわからないけど、調子が悪いことを新品のメリノウールのせいにしてしまった。
「ハハハハ・・・」
なんだその理由はと言わんばかりに二人で失笑した。でも確かにベタベタして気持ち悪かったのだけど、それは着慣れしていないだけだった。
「どうしよう?」
「いや、ここまで来たら行くでしょ」
「でも、しんどいから戻ろうかな…」
「じゃあ、戻ろう」
「ちょっと待って、行けるかも」
「じゃあ、行こう」
「でも、途中でもっとしんどくなるかも…」
不毛な会話を繰り返した後、涸沢カールまで行くことにした。濡れる覚悟を決めたのもこのときだった。
山歩きの過酷さと、なぜ歩くのかを問う
頂上までもうすぐという嘘
本谷橋に到着。この橋は一つの休憩ポイントになっていて、これから登る人や下りてきた人のお昼ご飯を食べる場所にもなっている。
川の音を聞きながら食べるご飯は本当に美味しいものだ。ただ今回はすでに横尾で鮭おにぎりとカップラーメン(シーフード)を食べてきたので、少しだけ休憩するだけにした。
小休憩では行動食と水を飲む。行動食は大好きな柿の種とミックスナッツを100円ショップで購入したボトルに入れて混ぜ合わせたもの。まるでドリンクを飲むようにボリボリ食べるのが好き。
山では何でも美味しくなる魔法がかけられているので改めて食に感謝できる幸せな時間だ。
10分ぐらい休憩したあと、いよいよ本格的な登りが始まる。本谷橋から涸沢カールまでは約3時間ぐらいかかるので、気合いを締め直して先に進む。
いよいよ雨も本格的になってきたけど、幸い山の中なので木がさえぎってくれてあまり濡れることはなかった。ゴアテックスのウェアを着ていることもあり、濡れることに心配はない。
やがて森林限界が近づき空も開けてきた。雨は相変わらず降っていたけど、まだこれくらいなら大丈夫。そう思いながら先に進む。そして、岩が多くなり始めると同時にゴールとなる涸沢カールが見えてくる。
いや、正確には本来なら見えてるはずの涸沢カールが見えてくる。雨でガスガスで一面真っ白だったけど、足元の岩に沿っていけばその先にゴールがあることを知っている。それが見えたのだった。
僕も妻も本当にしんどかったので、岩場に座り小休憩をとった。
「マジでしんどいね…大丈夫?」
「大丈夫じゃない、雨で濡れすぎて染みてきてる」
「俺も靴の中はぐちゃぐちゃだよ」
「確か、もうすぐだよね?」
「うん、もうすぐだよ」
終わりの確認をしながら本日最後の行動食を摂取して水を飲み歩き始める。
「頂上までもうすぐ」という言葉ほど信じられないものはないと、山あるあるとしてネットで話題になってた記憶があるけど、感覚的にはもうすぐゴールのはずだ。
しかし、あるあるのように自分で言うのは気にならないけど、人から言われると全然ゴールに辿り着けないことに不信感を抱いてしまうのは何故だろうか。
山道を作り、そして歩く
ザァー ボタボタボタボタッ!
今まで経験したことない激しい雨が降り始め、レインウェアに強く当たる。
「これは、やばい」
とっさに放った独り言は雨の音にかき消され、自分の頭の中に溶け込むように消滅した。
強烈に降り注ぐ雨によって自慢のゴアテックスのウェアも染み込み、全身びしょ濡れになってしまった。スノーボード用にも使えると聞いていたけど、3年目にして防水効果が落ちてきたのだろうか。
特にメンテナンスをしてなかったからかなぁ。と後悔。
こんなに強い雨にうたれたのは始めてだ。体の中も濡れ、寒気もしてきた。もしかして低体温症になるのではと頭がよぎる。疲れもピークに達し、全ての動きがスローに感じる…。
何人もの人に抜かされたり、追い抜いたりとみんなもみんなで限界なんだと思いつつ、後ろで同じくスローな世界に入った妻を気にしながら、水を完全に吸ってしまった重たい服でゆっくりと歩く。
ここまで水を吸ってしまうと、速乾性もクソモない。
重たい、つらい、気持ち悪い…。
目の前の真っ白い景色と同じように頭の意識も飛びそうだ。
何故こうまでして歩いているのか-
そして、何故僕たちは山を歩くのか-
登山をする者ならば一度は向き合うことがあるこの問いかけが頭に浮かんだ。どんなに深く考えても、どんなに本を読みあさっても、明確な解は恐らくない。
上高地から涸沢カールへの道は、長い歴史の中で誰もが歩けるように整備されてきた。人がより歩きやすいように設計され、現在も自治体や山小屋、山に関わる誰かの手によって改善が行われている。
今回一番驚いたのは、涸沢カールまでの山道で唯一危険箇所だった岩の道が、平坦に整備されていたことだ。
向こう側の状況も見えないので、人の流れが落ち着くまで登りと下りで譲り合い、渋滞を起こしてしまう箇所だった。うっかり踏み外と大怪我をしてしまう危なっかしい道は、確かに一年前には存在していた。
「すごい、去年までこんな道はなかったよね」
目の前に広がる整備された一本の道をみたとき、感動を越えた何かが込み上げた。
この道の話ではないけれど、山の中に人が歩けるように整備された道を作ることに反対する人たちもいる。
山は自然のままであるべきで、人の手を入れてはいけない…というのが大きな主張だ。
山の中に大きな施設を立てる話になると検討する必要はあるけど、山道を作ること自体には賛成している。
アウトドアブームが相まって、自然に触れあう人が増え、多くの人が山に入ってくるようになった。
わかりやすい道がなければ、誰かが通ったであろう道を頼りに歩くことになる。もしかするとそこには、希少植物が生えているかもしれないし、獣道なのかもしれない。
歩くべきではない道を歩いてしまうと、バランスが取れていた生態系を崩してしまう可能性もある。そのために「ここは、人が歩く道だよ」というレールのように挽かれた山道が必要なのだ。
整備された山道は「遭難しないように」「安全に歩けるように」という役割だけではなく、余計な足跡を山につけないようにと、保護する役割もあるのだと思っている。
「そんなの人間の目線でしょ」
そう言われるとそれまでなのだけど、歩いてしか見ることができない景色に感動し、癒され、人生に大きな影響を与えられた人を何人も知っているし、世界を見ればきっとたくさんいる。
行きたい場所まで導いてくれる山道には大きな価値があり、人間の暮らしには必要なものだと確信している。
僕の山歩きの楽しみ方は、景色を見に行くことでも、美味しいごはんを食べることでもなく、山の中を歩くことで、その道の上にある出来事や出会いに感謝することなのだ。
人は自然の一部と言われるけど、人間社会から離れ、閉ざされた山の中に来て初めて自然の一部ということが実感できる。生きている…と「生」を噛み締めることができる。
整備された山道と北アルプスの大自然を感じることができる涸沢カールまでの道のり。山登りの最初の目標にする意味がなんとなくわかった気がした。
強い雨にうたれ、山仕様の服とは思えないほど全身ずぶ濡れになりながら、山を歩くこととは何かを考えた。明確な答えはまだみつからない。
ようやく今回のゴールになる涸沢ヒュッテを肉眼で確認することができた。テントの受付場にて手続きを済ませ、早々にテントを張り、濡れた服を着替えた。
「疲れた…」
妻と僕からため息のように出てきた言葉と共にようやく安堵する時間が訪れた。
このあと、雨に濡れて冷えきった体を暖めるように防寒着を着こみ、夜ごはんを作ってすぐに寝た。
とにかく雨に濡れた1日だった。寝るころには既に雨は止んでいた。
涸沢カールとの約束
晴れの天気予報が的中した。
朝早く起きて涸沢ヒュッテに移動。涸沢カール名物のモルゲンロートを待ち構える人ですでに賑わっていた。
昨日の天気が嘘のようにキレイな晴れ空で、気温も高くそれほど寒くない。
やがて前穂高岳、奥穂高岳、涸沢岳、北穂高岳などの穂高連峰が赤く染まり始める。今まで見た中でも郡を抜く美しさに言葉が出ない。カメラやスマホのシャッター音がひたすら鳴り響いた。
疲れきった昨日の夜は、あのとき引き帰せば良かったと少し思うことがあったけど、あまりにも美しいモルゲンロートをみて、引き返さなくて良かったと思いなおした。身勝手な話だ。
1日目の過酷だった山行が記憶から消えてしまいそうなぐらい、2日目の涸沢カールはお目当ての紅葉もくっきり見え、秋を十分に楽しむことができた。下山中、何度も足を止めては紅葉の写真を撮りためる。今日涸沢カールに来た人は最高だな…と羨みながら、「こんにちは」と挨拶を繰り返す。
紅葉ゾーンが終わりに差し掛かるころ「また来ようね」と妻と言葉を交わす。
そう、涸沢カールに置いてくるものとは「また来るね」という山との約束だったのだ。命もゴミも置いていくつもりはないけど、こればっかりは置いてきてしまう。次来るときは秋ではなく夏の涸沢カールを見てみたいな。
今回も何事もなく素晴らしい山歩きができたことに感謝して、上高地バスターミナルへ向かった。
今回の「涸沢カール」のコース
今回歩いたコースは上高地バスターミナルから歩く王道中の王道。標識が所々にあるので迷う箇所も危険な道もなく全体的に楽しく歩ける。ただ、距離にして約15km、歩行時間が6〜7時間と長いため、体力に自身がない人は徳沢や横尾で1泊するのも良いだろう。
大きな施設が道中にあるため、飲み物や食料を買う場所に心配ない。横尾から涸沢カールまでは山道なのでそこまでには準備を整えておきたい。涸沢カールには「涸沢ヒュッテ」と「涸沢小屋」の2つの山小屋があるので飲食には困らない。とはいえ、行動食や簡単な食料は持参しよう。
温かいおでんをつまみにビールで乾杯すれば一瞬で疲れが吹き飛ぶ。就寝時間を忘れて騒ぐのはよくないが、夜の山小屋で山仲間と話で盛り上がるのもいい。
- 【山行日程】
- 2017年9月21日(曇りのち雨)、9月22日(晴れ)
- 【山名】
- 涸沢カール(からさわかーる)
- 【標高】
- 2,300m
- 【出発地】
- 上高地バスターミナル
- 【歩行時間】
- 約7時間(休憩含まない)
- 【トイレ】
- 上高地バスターミナルから横尾までの間は各所にトイレあり。涸沢カールでは涸沢ヒュッテと涸沢小屋のトイレが利用可能。いずれも有料。
- 【備考】
- 売店は上高地バスターミナル、明神、徳沢、横尾、涸沢ヒュッテ、涸沢小屋にある
- 【コース】
- 上高地バスターミナル → 明神 → 徳沢 → 横尾 → 涸沢カール(ピストン)
「上高地バスターミナル」までのアクセス
上高地は車両規制が行われているため、さわんど駐車場からバス・タクシーで向かいます。さわんど駐車場まで交通機関で行く場合は、松本駅から電車とバスでアクセス可能。詳しくはホームページにて。
▼HIKES編集長の里山トラベル
HIKES編集長の山歩きをTwitterでも発信しています。山歩きをしながら地域の歴史を巡る里山トラベル活動をしています。フォローすると喜びます。
HIKES編集長。ハイク歴6年。低山・里山などの山道を歩くのが好きです。里山暮らしに憧れ東京から長野県安曇野市へ移住。森の中のログハウスで理想のライフスタイルを目指してます。里山・山歩き・キャンプ・山城・ガーデニングなどをテーマに発信しています。